STORY

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Teruyo Usa



先住民、マイノリティだからこそ、自分のルーツや文化に向き合うことができるし、子ども達の未来についても、真剣に考えることができる。マイノリティだからこその苦難もあるけれど、でも、だからこそ出会える仲間たちもいるし、一生懸命できる活動もある。今、一歩踏み出そうとしている方がいらっしゃるのであれば、是非、一緒に未来に向かって頑張りましょう。

歌うこと、踊ることが大好きで、アイヌの先人たちの歴史や文化を楽しみながら知ってもらいたいと活動し続けてきた宇佐さん。東京で生きるアイヌだからこその道と、家族や仲間との深いつながりを通して照らされていく道。おばあちゃんの想いを料理で伝えるアイヌ料理店やアイヌ文化の表現活動のお話を通して、宇佐さんの歩んでいる道を辿っていきます。


PROFILE

名前 : 宇佐照代	
コミュニティ/国 : アイヌ / 日本
現在の居住地 :   東京
年齢:  49歳 (1972年生まれ)
取り組みや所属:  「ハルコロ」店主、アイヌルトムテ代表

アイヌとは


約17世紀から19世紀において東北地方北部から北海道(蝦夷ヶ島)、サハリン(樺太)、千島列島に及ぶ広い範囲に先住し、日本語とは系統の異なる「アイヌ語」をはじめ、自然界すべての物に魂が宿るとされている精神文化や、狩猟採取、口承文芸や刺繍文様など固有の文化を発展させてきた。日本政府による同化政策により、言語や文化の継承は危機的状況にあり、経済格差や差別問題を抱えている。2019年「アイヌ新法」が施行されたが、アイヌの先住民としての権利保護のための動きはまだ途上であり、長年にわたり続いてきた差別や差別を恐れアイデンティティを隠さざるをえないアイヌの人々の暮らしやあり方の改善には、今尚多くの課題が残っている。


北海道から東京へ

歌や踊りと共に、大変さを「楽しむ」


私は釧路で生まれ、10歳のときに東京に移り住みました。母も父もアイヌの血をひいていましたが、北海道にいた頃は何も知らずに育ちました。父と母の離婚を期に、東京で清掃業をしてた祖母を頼って、母と姉弟5人と共に東京へ。祖母は東京で関東に出てきているウタリ(アイヌ語で「仲間」「同胞」という意味)と共にふるさとを思い語り合ったり、歌や踊りをしたり、みんなが集まれる場所を作りたいという思いで会をつくって集まっていました。私も母に連れられてその会に通うようになり、すんなり歌や踊りを吸収するようになりました。



母子家庭で、母も家にいないことが多かったので、若い頃は原宿の歩行者天国でやきそばを売ったりアルバイトをして、遊ぶことも覚えながら過ごしていましたが、やんちゃなことはしていても、母に反抗することなく、歌や踊りは大好きで、楽器を教えてもらったり、パフォーマンスをしにいったりしていました。まわりの大人たちも、人権など難しい話などは子どもたちに聞かせないようにしていたし、難しい話の時には「あっちに行って遊んでよう」と離れていたりしましたね。


母は学校もろくにいけず、農家や加工場などいろんなところに出稼ぎに行かされていたようです。差別されるというよりも、とにかく貧乏で。母は自分の名前をやっとかけるくらいで、私たちが小中学校のときには代筆をしていたくらいでした。


東京では清掃業をしていて、最初は生活保護を受けていたんですが、それが嫌で断りがんばっていました。中学のときには私ももう働いていました。

貧乏で大変でもありましたが、そんな状況を楽しんじゃうというか。水道、ガス、電気がとまったりすることもしょっちゅうだったけれど、サバイバルを楽しんでいましたね。講演会でこの話すると、泣きながら聞かれている方もいるんですが、そんな光景を見ると逆に、「そんなにつらいことだったんだ」と思ったりもします(笑)。


おばあちゃんの活動と想いを「料理」で伝える

私のおばあちゃんは、とても威厳のあるどっしりとしたおばあちゃんで、身内には厳しく周りには優しい人でした。アイヌの着物でパフォーマンスをしていましたが、いつも大きなサングラスをかけていて、子どもたちにばっとおっぱいみせて驚かせちゃうような面白いおばあちゃんでもありました。政治家にいろいろな陳情をしに行ったりもしていましたが、どっちが頼まれてるかわからないくらいどっしりしていて。そんなおばあちゃんたちが「アイヌの権利のために」という活動をしているのを、よく見ていました。


おばあちゃんは、歌や踊りもやっていましたが、それよりも、生活館のような場所で寄り集まれたらという思いも持っていました。そのおばあちゃんの思いに共感した東京にいた他のアイヌの方々が集まり、政府にお願いしても埒があかないから「アイヌ料理屋を作ってみんなに知ってもらえたらいいいのでは」ということで、2年半くらい日本中で歌や踊りで、お店を作るためのカンパを集めることができました。そうしてできたお店が「レラチセ」です。いまから約30年前に早稲田で開店して約7年、中野に移転して7年ほど続けましたが、2009年に資金難もあって閉店。けれども、「ここで生まれた交流を途絶えさせてはいけない」と、私たちが、2011年に新宿で北海道創作料理店「ハルコロ」をオープンしました。母はその後1ヶ月ほどで他界してしまったのですが、それまでの間、私たちに料理を教え続けてくれました。

東京にも「東京アイヌ文化センター」という施設がありますが、差別をおそれ、アイヌであることを知られないようにと暮らしている人たちは、内心では関わりたくても、出入りしているところを見られたらと不安に感じ、関われないでいる人が大勢います。でも、ご飯をたべたり、飲んだりする場所には、気軽に通うことができるんですね。どんな人でも、アイヌ料理を食べに来れる場なので、アイヌでない人にもアイヌの食や暮らしを知ってもらえますし、アイヌであることを隠さないといけない人たちも、そっと自分たちの文化に触れることができます。そういう瞬間を感じる時には本当に、「この店があって良かった」と思います。


ある日、アイヌに見えるおっちゃんが、店の前でじっとこちらをみていて、「おっちゃんウタリ?こんどご飯食べにきて」といったら数日後に来てくれたことがありました。ギュッと手を握り、特に何も言うことなく、半分泣きながら嬉しそうな顔をしていてくれたこともありました。また、アイヌ料理を食べながら、ニコニコ笑って、普段は他の人とは話せないであろう昔の話をしてくれる方もいたりします。そうした日常の中の素敵な出会いって、こういう店だからこそだなと思ったり。一緒にご飯をたべて、同じ時間を共有すると、あらたまってお話をきくというより、たくさんいろんなことを教えてくれるし、ぽろっと出てくるものがとても重要だと思っています。



東京でアイヌとして

生きるということ

道外に出てしまったアイヌは「アイヌとしてみられない」ということもあります。関東に出て行っているアイヌは、北海道に住んでいるアイヌと違って、行政による支援策が一切ありません。政府からだけでなく、日本の方からしても、アイヌ=北海道の人というイメージが強いので、都内のイベントなどに参加しても「北海道からきたのですか?」と聞かれることも多く、「東京にすんでいるんですけれど、、」と答えると、期待外れの様な、相手のトーンが下がったりすることもしばしばです。


関東にいるアイヌには、「仕事がないから東京にきた」「差別から逃れてきた」という人もいるのですが、いろんな政策から度外されています。「北海道の人じゃないんですね」と言われるのをしょうがないと思ってはいたけれど、「アイヌ語を話せなくてもアイヌだし、伝統的な着物を着ていなくてもアイヌだ」「そこで引目を感じないようにしなくては」と思うようになりました。東京でパフォーマンスをする意味も、そこにあると思っています。「なぜ東京で?」と聞かれることもありますが、「ここでできる意義を見つけていくしかないかな」とも思っています。

また、沖縄から東京にきている人たちとのつながりで「チャランケ祭り」というのもやっています。「チャランケ」はアイヌ語では「勝ち負けを決める、話し合う」という意味で、うちなーぐち(沖縄島の言葉)で「ちゃーらんけ」は「消えるなよ」という意味があります。中野で27年前にはじまり、今も継続しています。

お店ではマオリの子どもたちとの交流もありました。みんなでご飯たべながら交流できるのが嬉しいですね。サーミの方々や台湾の方々など、いろんな国の人たちとの交流の場にもなっています。



先祖を敬い、次世代の道を照らす

〜AYNURUTOMTEの活動〜

祖母や母を始め、本当に多くの先輩たちからたくさんのことを教わってきた私も、次の子どもたちに「先祖を敬う」ということを伝えたいと思い、アイヌの文化を表現するチームとして「AYNURUTOMTE(アイヌルトムテ)」というグループをつくりました。先人たちの言葉や、おばあちゃん、母たちがしてきたことをとても大事にしていきたいですし、その歴史がなければ、なんの意味もない存在だなと思うので、そういうことたちを子どもたちに伝えていきたいです。それが自然にできれば、一番良いですよね。


アイヌ語を話すことを禁止されていた時代に生きたおばあちゃんは、私にもアイヌ語だけは教えてくれず、人前で話すことはなかったのですが、亡くなる寸前、お見舞いにきていたウタリと、ひそひそとアイヌ語で話しているのを聞いて、大変ショックを受けました。教えてもらえなかったということも辛かったですし、そんな思いをおばあちゃんたちが持っていたことも衝撃でした。そして、子どもたちにそういう思いをさせたくない、というのが今の私の原動力にもなっています。


小学校などで授業をすることもありますが、「かわいそうな差別をされた悲しい民族だ」というより「楽しいな」という入り口から入ってもらえたらと思っています。AYNURUTOMTEは「アイヌの道を照らす」という意味。子どもたちが育っていくのがとても嬉しいですし、続けていくためには、まず私たち自身が楽しいと感じていることが大切だと思っています。


子どもたちが選択し、チャンスをつかんでいける未来を


今、アイヌの血を引く若者たちは、私が子どもの頃よりもたくさんいろんなことを感じていると思います。甥っ子が通う札幌大学では、ウレシパクラブというアイヌの歴史・文化を理解し、多文化共生の精神を養うプロジェクトがあったり、ニュージーランドのマオリの方々と交流しに現地に行ったりと、いろんな国の人たちと繋がりを持つこともできているようです。世界の人たちとつながり、いろんな知識をもつチャンスを、私たちがもっとちゃんと広げられたらと思います。

これまでは、アイヌ刺繍を勉強したくても、関東に住所があることを理由に習えず、わざわざ北海道に住民票を移した人もいました。差別で学校に行けない子も多く、日本人との進学率にも差があったし、就職、恋愛においても、アイヌの人とは関わりたくないという和人も多いことが、大きな影響を及ぼしています。SNSで匿名で誹謗中傷があったりもします。


私にも娘がいますが、「選択できる状況」を作っていきたいのです。私が小さい頃はチャンスも選択も、学ぶ機会もなく、働くことしかできなかったけれど、今、間に合えばいろんなことができるはず。スローフードが札幌で先住民のイベントをやると聞いたときにも「すぐにいきます!」となったように、できる限り子どもたちにも場を作っていきたいと思います。


この写真は東京のアースデイでパレードをしたときのものです。私たち大人が「日本の先住民アイヌ」という横断幕を書いている横で、娘が紙とペンをもってきて、自ら「アイヌのるいの」(るいの=娘の名前)と。説明したわけではないのに、自分で書いていたのを見て、周りのみんなが喜んでいました。差別などなく、子どもたちみんながそんな風に言えるような世界をつくりたいなと思います。

宇佐さんのプライドフード

"オハウ"は、アイヌの家庭料理でも定番の汁物のことを言います。鮭やタラを入れるとチェプ(お魚)オハウになります。昆布やニンジン、白菜、大根、ジャガイモなど、家庭によって具材は様々です。味噌を入れる人もいますが、伝統的なオハウは、塩だけで味付けをしていて、味噌は入っていません。ハルコロでは他にも、高タンパク・低脂肪の鹿肉丼なども提供しています。ハルコロで提供する鹿肉は、北海道から仕入れています。

宇佐さんの人生年表


1972 釧路で生まれる

1982 東京へ移住

2011 ハルコロ オープン

現在  AYNURUTOMTE代表としても活動中

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